このOccam's Razorという名前を持つWeb解析に関するblogを運営するアビナッシュ・コーシック(Avinash Kaushik)が原著で400ページ超、邦訳では500ページを費やしてWeb解析について語りつくした大著が「Webアナリスト養成講座」(原題は"Web Analytics: An Hour a Day")。無駄にこの厚さになった感はない。言葉を剃り落としてもなお、これだけの分量を要するのだ。
数年前にたまたまOccam's Razorを知り、Webサイトにおけるエンゲージメントの計測をはじめとした問題設定の鋭さに興味を持って、時々おぼつかない英語力を武器に立ち向かっていた(そして尻尾を巻いて逃げ帰って、dIG iTのあんけいさんに泣きついたりした。苦笑)ぼくは、2007年に出た原著をその年の終わり頃にアマゾン・ジャパン経由で購入していたのだけれど、これがまあまったく中を覗いてみもしなかったんですよ。
そして原著刊行から2年を経て今年の夏に「Insight for WebAnalytics」の衣袋さん監訳により翔泳社より日本語版が出たわけです。過去に何度か取り上げた「Web解析Hacks ―オンラインビジネスで最大の効果をあげるテクニック & ツール」の著者としても知られるエリック・ピーターソンの"Web Analytics Demystified: A Marketer's Guide to Understanding How Your Web Site Affects Your Business"がいっこうに翻訳される気配がない(それどころかアマゾン・ジャパンでの洋書の取り扱いにもない)状況だっただけに、この日本語版刊行はちょっと思いがけない喜び。
さりとて、Web解析自体がぼくの興味の中心からはずれはじめていたこともあって、実は発売後1週間くらい経ってから購入ボタンを押し、手元に届いたあともしばらくほかの本と一緒に積まれていたというていたらく。
しかし読み終えた今、とりあえずこれだけははっきり言っておきたい。
あなたがもしこの本を読んでいないとすれば、それはあなたがWeb解析に関して少なくとも2年以上遅れた場所にいるということをあるいは意味します。それがどのようなインパクトを持つのかは、あなたの置かれた環境や職務により異なりますが、少なくともWebサイトの運営に何らかの形で携わっているのであれば、もはやそれは決定的であるといっていいと思います。
もはやWeb解析はこの本から後戻りすることはないでしょう。そしてたぶん、今後数年間はこの本が設定した枠組みの外へ、Web解析が出て行くことはないと思います。
アビナッシュ・コーシックが『アクセスログ解析』を過去のものにした一つの理由
「Webアナリスト養成講座」の日本語版に寄せた序文で、著者のアビナッシュ・コーシックはこう書いている。本書の核となっているのは三位一体戦略です。三位一体戦略では、Whatの質問と、同様に重要なWhyの質問に答える形で、あなた自身の考え方を変革していきます。三位一体思考法を学んだ後は、データに対する考え方が根本から変わっているはずです。彼のいう三位一体戦略、ないし三位一体思考法とは、Webサイト上での利用者のふるまいを事後的に解析する従来のアクセスログ解析を拡張した、
アビナッシュ・コーシック『日本語版への序文』(「Webアナリスト養成講座」)
- 行動分析(アクセスログデータに基づく各種集計の指標化からページ遷移分析、クリック密度分析などWebサイトにおけるユーザ行動の分析)
- 成果分析(コンバージョンの測定に代表される成果測定からそもそもの成果の定義とその測定などWebサイトを通じてビジネスが達成すべき成果の分析)
- エクスペリエンス分析(ユーザ調査やヒューリスティック評価などWebサイトにおけるユーザエクスペリエンスに関わる分析)
三位一体(Trinity)という言葉は、キリスト教においては唯一神が「父と子と精霊」という3つの位階において現れるものとして教義の根底に置くものだ。この重みを持つ言葉に対して「サーバログ以外のデータリソースも活用して<3つの分析>をする」といった受け止め方をすることは、著者の意を汲むにあまりにも足りないというべきだろう。WebAnalyticsの信奉者に対して、『道を整える者』としてのアビナッシュ・コーシック(彼はいまGoogleの Analyticsエバンジェリストでもある)は、それが3つの顔を持つただ1つの活動であることを告げている。
そしてぼくが、アビナッシュ・コーシックが『アクセスログ解析』を決定的に過去のものにしてしまったと感じたのはこの3つのアスペクトの中に「ユーザエクスペリエンス」を立てたというその一点に拠る。
Webサイトを解析することを、がらくたのようなサーバログデータの加工と集計から解き放ち、「ユーザ自身に聞け」と彼が告げたとき、古きよき時代は終焉を迎えた。Web解析はテクノロジーと統計の世界からマーケティング、社会調査、ユーザビリティ、心理学、ブランディング、マネジメント、その他の諸学を巻き込んで拡大する領野として新たにぼくらの前に立ちはだかっている。もちろん、アビナッシュ・コーシックがそのようにしむけたわけではない。彼はいちはやくそのことに気づき、広く告げたにすぎない。
そして、より視野を広げてみればアビナッシュ・コーシックの取り組み自体も、その価値を十二分に評価した上でなお、先見性に富んでいたとはいいにくいのは確かだ。彼自身は「ユーザエクスペリエンス」ではなく、「顧客中心主義(Customer Centricity)」というタームを大きく掲げているほか、本文中には「顧客エクスペリエンス/カスタマー・エクスペリエンス(the experience of customers, customer experience)」、「UCD手法(UCD methodologies: User-centered Design methodologies)」、「Webサイトエクスペリエンス(Website Experience)」というタームが現れる。この領域では他にも人間中心設計(Human-centered Design)や広義のユーザビリティ(Usability)、「おもてなし」のような言葉まで含め、Web解析にとどまらず広く製品・サービス開発から顧客コミュニケーションまでいまや大きな課題としてそこにある。
しかし、ぼくが知る限りにおいてWebサイトの開発や運営に関わる人たちの中でいち早く「ユーザエクスペリエンス」の重要性を指摘したのはAdaptive Path社のCo-Founderであり、Ajaxの名付け親としても知られるジェシー・ジェームズ・ギャレット(Jesse James Garrett、以下JJG)だ。彼が2003年に著した「ウェブ戦略としての『ユーザーエクスペリエンス』―5つの段階で考えるユーザー中心デザイン」(原題は”The Elements of User Experience: User-Centered Design for the Web”、邦訳は2005年)は今なおその思考の美しさもあいまって無視できない力を持つ一冊。この本はJJGが2000年に思いついて自身のWebサイトで公開した一枚の概念図が核になっており、12ヶ国語に翻訳された中には浅野紀予氏による日本語版もあるので未見の方は目を通してほしい。
もっとも、Webの世界における「ユーザエクスペリエンス」に関する功績をJJG一人に与えることは贔屓目にすぎるきらいがなくはない。彼の発想以前にすでにヤコブ・ニールセンはユーザビリティ・エンジニアリングに関する著述活動を行っており、ちょうどJJGがひらめいた2000年に「ウェブ・ユーザビリティ」を出版している。
ユーザビリティ、人間中心設計、そしてユーザエクスペリエンス。これらはひとつの流れの中で揺らめきながら、ビジネスサイドの人々に大きな決断を迫っている。例えば第4章「Web Analytics 戦略の成否を分ける重要な要素」の『顧客中心主義宣言』を見てみよう。
Web Analyticsにおける三位一体アプローチ(第1章で概説した)は、Web Analytics戦略に顧客中心主義を持ち込むことがその根幹にある。三位一体思考法は、カスタマー・エクスペリエンスをあらゆる側面から測定するということを最も重要視しているが、その目的は、なぜ顧客はあなたのWebサイトにやってくるのか、Webサイトはどのようにして彼らの抱える問題を解決しているのかを深く理解することである。Web解析というこれまでビジネスの中心に置かれることのなかった地味な分野から、アビナッシュ・コーシックは「会社(短期)至上主義から顧客(長期)至上主義への思想転換」を訴える。そう、流れの中で揺らめいているのはビジネスの支点だ。それは徐々にユーザに向かっている。この流れはもはや押しとどめることができないだろう。「ユーザビリティ」という言葉からWebサイトを見るとき、それはあくまでサプライサイドにおけるWebサイトの最適化だったような気がする。だが、「ユーザエクスペリエンス」という言葉が見出されたとき、ぼくたちは決定的な何かをユーザ側に受け渡したのではないだろうか。そこには例えば、以前「Web2.0? まずはクルートレインマニフェストを読み返すんだ」で触れたようなもうひとつ別の流れもあることを記憶しておくべきかもしれない。
アビナッシュ・コーシック「Webアナリスト養成講座」
とまれ、アビナッシュ・コーシックは「Webアナリスト養成講座」において、単に起きてしまった過去の追認でしかない『アクセスログ解析』を超えて、なぜ顧客はぼくたちのWebサイトにくるのか、ほんとうに役に立っているのか、どうすればより有用なWebサイトを提供できるのかを知るための手段としてWeb解析を位置づけた。ユーザビリティラボテストも、ユーザアンケートもVOCの分析も、そしてユーザが実際にWebサイトを利用する現場に赴いてのサイト調査をも、Web解析の中に組み入れた。Webサイトの向こう側、Whyを知ることをも、彼はWeb解析の重要な課題に据えたのだ。
『アクセスログ解析』への死の宣告と、それに代わるWeb解析の生誕の告知。「Webアナリスト養成講座」は、Webマーケティングの世界に生きる一部の人間にとって極めて深刻でいて、より大きく自由な世界への道を開いた一冊として記憶されるべきだろう。
「Webアナリスト養成講座」の読み方
「Webアナリスト養成講座」の『イントロダクション』、<本書の内容>によれば、この本は以下の4部構成になっている。- 第1部:Web analyticsの基礎(第1章〜第3章)
- 第2部:三位一体的アプローチ(第4章〜第5章)
- 第3部:Web analytics計画を実行に移す(第6章〜第12章)
- 第4部:進歩したWeb analytics、と「DNAに組み込まれたデータ」(第13章〜第15章)
また『イントロダクション』の<本書は誰の役に立つのか?>には「答えは簡単。すべての人だ」とあり、
- Webに興味がある人
- CEO
- Webビジネスの責任者
- マーケッター
- 営業マン
- Webデザイナー
- ユーザ・リサーチャー
- アナリスト
時間がない人はまず三位一体アプローチについての概説がある第1章、Web解析とビジネスマネジメントの関係を整理した第4章、Web解析の組織における成熟度について解説している第15章だけを読むのがよいかもしれない。
Webサイトの運営に直接関与する人はさらに定性分析について概説している第3章、レポーティングのプロセス設計についてシックスシグマのDMAICプロセスなどを活用して語っている第11章もあわせて読んでおくべきだ。
全体の半分弱を占める第3部の内容はWeb解析の実務に携わる人にとっては基本的だけれど当然知っておくべきことばかりなのだが、多くの人は興味と必要と時間に応じて目を通す程度で構わないのではないだろうか。ただ、読まないことによって得られないものがあるのも確かだ。
"Web Analytics: An Hour a Day"という原題を「Webアナリスト養成講座」と訳したことに、読む前に違和感を覚えたが、読後それは間違いだとわかった。もしあなたがいまWebアナリストを志しているのならば、まずこの本を買い求め、通読すべきだ。そうすれば、きっとあなたはそれなりのWebアナリストになれるだろう。「リアルアクセス解析」の小川さんなどは、すでに2回通読したらしい。スーパーWebアナリストと言わざるをえまい。微笑。
ぼくが「Webアナリスト養成講座」を通読できたわけ
あるいはこのエントリを読んで、じゃあ「Webアナリスト養成講座」買ってみるか、という人もいるかもしれない。しかし、この本、ほんとにびびってたじろぐ厚さなんですよ。もう見ただけでピーナツぎっしり確かな手ごたえでおなかいっぱいなんですよ。われながらよくこんな本読めたなあと読後ちょっと自分をほめたくなりましたよ。苦笑。そんな中で読み通すモチベーションを維持できたのはTwitterやblog、アクセス解析イニシアチブの会合などを通じて縁をえたWeb解析界隈の人たちのおかげかもしれません。「あー、小川さんが読み終えている」、「市嶋さんも読み終えたのか」、と実際にお会いしたときの本人の顔を思い出しつつ、またアユダンテの大内さんのTwitterでのウェブアナリスト宣言に軽い驚きを感じ、そして監訳者の衣袋さんの笑顔を思い浮かべながら、どうにか読み終えてこのまとまりのないテキストを書くところまでたどりつきました。あらためて諸氏に感謝。
そしてこの本を世に送り出してくれたAvinash Kaushik、日本語版を出版してくれた翔泳社さん、第1章から第6章の翻訳を担当された内藤貴志さんにも感謝。
すみません。本文中のblogへのリンクURLが間違っていたのにいま気づいて修正しました。
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「Webアナリスト養成講座」元文学青年から超長文の書評を書いて頂きました
http://ibukuro.blogspot.com/2009/11/web_16.html
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と、思わず身もだえしたくなる(自業自得)ようなタイトルでご紹介いただいた上、コメントをいただき、なんだか受講終了証をいただいたような、ちょっと晴れがましい気分です。微笑。
改めて読み直してみると、内容に含めようと思っていたもののうちのプラクティカルなそれがほとんど抜け落ちていることに気づきました。恐らくはそのあたりが、衣袋さんのエントリのタイトルに影響したのだろうなあと憶測しています。
「Webアナリスト養成講座」という本を実務書としてではなくひとつの『作品』として称揚することで、WebAnalyticsをより大きな『物語』としてすくいあげようとした意図がぼくのなかにあったような気はします。
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そういうわけで、もっとこの本についてまともな話を聞きたい、という方はリサーチやリレーションシップ・マーケティング、CRMについての深い知識と経験を持ち、いち早く「マインドリーディング」という言葉で顧客に正面から向き合っているマーケター、松尾順さんの書評、
Webアナリスト養成講座 - Web Analytics: An Hour a Day -
http://www.mindreading.jp/blog/archives/200908/2009-08-25T1640.html
にも目を通されることをおすすめいたします。