およそ30分前のことを去年と呼ぶことに今さらながら小さな驚きを感じつつ、プレミアムモルツとのどごし生とアルゼンチンの激安白ワインですっかり出来上がったまま今これを書いています。特に言いたいこともないまま、ぼんやりと去年のことを思い起こしながら。
2012年はよき人たちと巡り会い、新しい機会に恵まれた年になりました。冬から飛び込んだプロジェクトで分不相応な期待感に身をかたくしつつ、取り出されるデータからうかがえる予想だにしなかった変化に驚きつつ、今年は成果を出すために動かなくてはならないようです。まともにふるったことのない刀の切れ味や如何に。
もう一つ、個人的には自分の中の言葉を結び直す作業を春過ぎから秋にかけて続けていました。 佐々木中「定本 夜戦と永遠---フーコー・ラカン・ルジャンドル」(河出文庫)
を読み終えたのがきっかけとなり、もう一度、哲学を自分の中に置き直すために、ちくま新書の入門書を中心に読み進めました。ラカン、フーコー、ハイデガー、ニーチェ、カント、そしてプラトン。哲学史の糸をたぐる孤独な営みは、入門書の上澄みだけでも知的喜びを感じさせてくれます。ともすれば、いまの自分の仕事とまるで結びつかない古き良き知恵と向き合う上でひとつの道筋を示してくれたのは、スラヴォイ・ジジェクが 「ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」(ちくま新書)
の冒頭にそっと置いていた、こんな言葉でした。
真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。
ジジェクを最初に知ったのは、確か浅田彰の対談集 「『歴史の終わり』を超えて」(中公文庫)
で、その後翻訳される本を割と購入しては適当に読み飛ばしていたんですが、たぶんそれなりに影響を受けていて、例えば「海街diary4 帰れない ふたり」なんかはジジェクをくぐっていなければあの書き方にはなっていないはずなんですが、まあそれがよかったかどうかは別の話。
上に引いたジジェクの一節は言い換えれば「温故知新」みたいな身も蓋もない話なんですが、そこにとどまらない幅を持って、古きを尋ねるぼくを押し上げてくれたような気がします。
例えば安部公房が今なお生きていたとしたらどんな小説を書くだろう、ということを時折ぼんやりと思い浮かべることがあります。答えが出たことはありません。もう一つ、埴谷雄高は 「死霊」
の第1章に、首猛夫と岸杉夫の対話としてこんなことを書いています。
── そうなのですよ。岸博士。この絶世の美人は東洋的な愚劣な幻想だが ── 二千三百年前のアリストテレスの幽霊がいま貴方の前に現われたとしたら、ふむ、貴方はどうします?
── どうするって……どういう意味です?
── つまり、まあ、論理学の講義でも貴方にする……としてです、貴方はアリストテレスを賛嘆するでしょうか?
── そう、二千三百年前の偉大な才能を称えるでしょう。
と、岸博士が落着いて答えた瞬間、軀全体が揺れ上がるほど首猛夫は爆笑した。
── おお、嗤わしちゃいけませんよ、岸博士。僕が訊いているのは、二千三百年以前の……まあ、百年以前のでも好いが、或る思索者の思想についてなんです。つまり ── 或る瞬間でぴたりと機能をとめてしまった思想は、恥知らずではないかと訊いているんです。
ここで首猛夫と、ジジェクは、ぼくの中で奇妙な緊張感を持って対峙します。そしてもう一つ。 ロバート・パーシグの「禅とオートバイ修理技術」
という小説があるんですが、主人公の前に現れるのは、アリストテレスではなく、パイドロスの幽霊です。ところがぼくは、プラトンの 「パイドロス」
を読んでいなかったわけです。そうなるともう、パーシグの小説は、これは読めない。
ベルナール・スティグレールは自らの技術論を語る際にプラトンの 「メノン」
に言及し、ジャン=リュック・ナンシーは 「声の分割」
で「イオン」という文庫化されていないプラトンの著作とハイデガーの仕事をつなぎあわせています。フーコーの最晩年の仕事もプラトンを再発見し、ニーチェもまたプラトンについて語っています。ハイデガーはソクラテス以前の哲学者、ヘラクレイトスやアリストテレスと、ニーチェをめぐる仕事をしています。そして、割と注目されていない晩年の技術論に現れる「ゲシュテル」というタームがスティグレールの仕事に影を落とす。この、めくるめくような、テクスト。常に先行する書記を求めてやまない、テクスト。
「メノン」、「パイドロス」、 「ソクラテスの弁明・クリトン」
、 「パイドン」
といったプラトン中期の作品群を、時に興趣をそそられ、時に退屈しながら読み進めました。われわれのいる現状が、プラトンの目にはどう映るか思いを馳せ、答えが出ぬまま、もう一度自分の中に哲学史の線を引き直す。プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、デリダ、そしてスティグレール。
そう、はじまりはスティグレールだったんだ。2009年末に東大の情報学環のシンポジウムで来日した際に彼の言葉を同時通訳を通して受け入れて、何冊も読み進めて、最後に残った主要著作 「技術と時間」
で躓いた。スティグレールと同じ場所で時間を過ごしてから、もう3年が過ぎたのだなあ。
ただ一冊の本を読み通すためだけに、知らなければならないことがいかに多いことか。そしてたぶん、多くの人はそんなことを知らない。それは今、書店で平積みされている本の表紙を眺め渡せばなんとなく想像はつく。それにしても、有用性だけを価値の尺度として生きることは、貧しくはないか? ぼくはごめんだ。テクストの誘惑に身をゆだねて、糸をたぐろう。そして、今年こそは、「技術と時間」を読みたいなあ。
おや、もうこんな時間ですね。あけましておめでとうございます。