表紙も本に含まれる

books 】 2008 / 03 / 26
404 Blog Not Found「誰が講談社現代新書を殺したか」に目を通すと、2冊の新書の表紙の画像があった。

最初意味がわからず、よくよく眺めてみれば新版の表紙がまあ実にみごとに背表紙が褪色。矢吹ジョーよろしく真っ白に燃え尽きている。隣り合って書棚に並んでいたという旧版のマットコートの表紙はといえば、クリーム色は落ちているように見えるが書名はきれいに読み取れる。

小飼さんはこの背表紙が果てしなく漂白される新しい装丁を手がけたデザイナーの中島英樹と講談社を槍玉にあげていて、はてなブックマークのコメントを見ても少なからざる人がこの新装丁以降、講談社現代新書を手に取らなくなったといっている。個人的には新装丁に幻滅して敢えて書棚を避けるということはないけれど、手元にあった東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」を眺めてみれば表紙も章扉も安っぽく、装丁としてはおよそレベルが低い。かといって、以前の杉浦康平の装丁もさほど気に入っていた感はない。

で、コメント中、nununiさんが「三年半前にこの件について書きました。⇒http://nununi.net/cgi/archives/000498.html」と記しているのに気づく。開いてみると、徘徊の記録「講談社現代新書リニューアル」というエントリーで当時の主だった新書の表紙をまとめて紹介していた。

こうやってまとめて見ると面白いもので、すぐに自分の好みなのは2つだけだと気づいた。それはさほど気に入っていた感のない杉浦装丁の講談社現代新書と、ちくま新書だ。この2つだけが、表紙に梗概を入れており、明らかに情報量が違う。この2つだけは、表紙が読み物になっているのだ。

このあたり、nununiさんも、
表紙部分に内容説明とイラストがあるので、カバーを見ただけで内容が想像出来るところが講談社現代新書の良さだった
と言及していて、同感するところ。

改めて書棚で旧装丁の講談社現代新書を探してみる。新宮一成「ラカンの精神分析」を見ればカバー画にアンリ・ミショー2点をあしらい、梗概が添えられている。裏表紙には執筆者の新宮の写真および略歴と章見出し。表紙側のカバー見返しには本文中からの長めの引用があり、裏表紙側のカバー見返しには既刊の現代新書で関連テーマの本を9冊、簡単ながら紹介しているのが親切。章扉にはアンドレ・ブルトン「ナジャ」に挿入されたイラストやミショー、ボッスなどがモノクロで置かれているのもなかなかに贅沢。奥付を見ると装丁者は「杉浦康平+佐藤篤司」とある。表紙の書名のタイポグラフィは一冊一冊異なるし章扉の処理も本により違うためだろう。

今村仁司編「現代思想を読む事典」は事典として編集されているため裏表紙に執筆者一覧が記載されていたり章扉がないなどの違いはあるものの、加納光於の版画は趣味がよく、広めの背表紙にも映える。こちらの装丁者は「杉浦康平+赤崎正一」とある。

こうして仔細に眺めてみると、あらためて講談社現代新書がいかに劣化しているかがよくわかる。おそらくは出版点数を増やすために、編集の手間をできうる限り少なくしようと考えたに違いない。

ベースフォーマットの拘束性が強い分、表紙のデザインは色指定さえすればほぼ完了。カバーや章扉に図版を使わなければ、著者との打ち合わせの手間も掲載許諾を得る手間もはぶける。編集者はおそらく講談社現代新書にきちんと目を通していないし、目を通していたとしてもすぐに絶版になるか、新刊以外は書店の棚に補充されないので既刊の関連書籍紹介は書けないか書いても意味がない。よってはずす。ついでに梗概も本文からの引用もはずしたので配本までのリードタイムはさらに短縮だ。ここまでやれば、よほどの盆暗でないかぎり誰でも編集を担当できるにちがいない。苦笑。

俗に、書籍は著者ひとりの手によるものではなく、編集者との共同作業によって送り出されるものだといった意味合いのことが言われる。少なくともかつての講談社現代新書はそうした書籍だったと思う。わざわざ手間をかけて章扉ごとに異なる図版を挿したり、関連書籍を紹介したり、表紙に梗概を入れることが、いかに奥行きを作り出していたかを思うと、当時の編集者の仕事には頭が下がる。

タグ:Book design IA





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