安部公房「カンガルー・ノート」(新潮文庫)

books 】 2008 / 03 / 10
右側のリンクから「衰弱堂の書架」を覗いている人は想像がつくわけだが、古本屋で安部公房の本を立て続けに買って、手をつけていない。一冊だけ、「カンガルー・ノート」を先月読んだ。単行本で読んだような気がしていたのだが、書棚で見た瞬間読みたくなり買った次第。



さて、世の中の本好きに属する者どもは、なぜかある種の本に対して使命感を抱くことがある。「この本は買っておかねばならぬ」といった奴。なぜ、「ねばならぬ」のかはさっぱりわからない。そのあたりの理屈抜きに、いきなりその境地にまで達してしまうのが使命感としかいいようのないそうした感情のあり方なのだろう。

ぼくにとって、「安部公房全集」はそうした本だった。

新潮社のWebサイトを見ると、第1巻刊行は1997年7月。見返しに安部公房自らが撮影した写真を配し、箱裏には幼少期の写真が使われている。表紙のアルミプレートが箱の穴から覗く近藤一弥の装丁は「箱男」を思わせつつも格調高く、所有欲を十二分に満たす仕上がりだろう。その後もこの装丁を越える全集を見た記憶がない。

悲しいことに、いまぼくの手元にはこの第1巻、一冊だけがある。

1冊が6000円弱と高価だったのも災いした。第2巻が配本された1997年9月あたりで当時の勤め先はおかしくなり、第4巻が出た頃には給与が遅配していた。第5巻が出たのは、ちょうど会社が倒産した直後。このあたりの経緯は、以前「a dedicated decade」にまとめた。縁がなかった、というべきなのだろうか。

そもそもが、買い求めた第1巻も読み通してはいないのだから、まあ縁はなかったのだろうな。苦笑。

「カンガルー・ノート」は、安部公房の生前に刊行された最後の作品だ(死後、「飛ぶ男」が未完成のまま出版されている)。脛に突然カイワレ大根が生えて来た男が病院に駆け込み、自走ベッドに乗せられたままあちこちを彷徨う話。冒頭部分を鮮明に覚えていたにもかかわらず、読み進めるにつれ全く記憶にない事態が繰り広げられ、言いようのないラストを迎えて呆然。これ、読んだつもりで読んでなかったのか……。

十代の終わり頃に、畏友『黒いレリス』の薦めにしたがって手にした安部公房は、極めてスタイリッシュな書き手に感じられた。それゆえ、当時は「箱舟さくら丸」以降の作品は彼の中では一段落ちるものとして受け止めていたように思う。「カンガルー・ノート」も、そのあまりにスラップスティックな展開に嫌気がさして途中で読むのをやめたものか。しかし、この語り手の思考の疾走感はまぎれもなく安部公房でなければありえないそれだ。見えすぎるものを削ぎ落とし、不安定な方へ、未分化な思考へと寄せていく手腕に感服しつつ読み進めた。解説のドナルド・キーン(ぼくはいまだに彼が何者なのかよく理解できないのだが)の指摘も、ぼくとはまるで見ているところが違うが腑に落ちた。

自走ベットの走るにまかせ、やがて空腹に耐えかねて脛に生えたカイワレ大根を口にするくだりは、「ユープケッチャ」や「箱舟さくら丸」でも展開されている自足するモチーフ。それ以上に、作中の女性をめぐる思考の現れ方は安部公房らしい。そして何より、自らの思考が自らを縛り、世界が歪められていくオブセッションの在りようには彼の刻印がくっきりと浮かぶ。平板なラストを迎えるあたりで、死を前にしていた彼を思い、いまそれを読む自分を思うと、名状しがたい残酷さに思い至らざるを得ない。なぜだろう、この酷薄は、どこから来るのだろう。小説とは、時にこれほどまでに、切ないものなのだ。

またいつの日か、たぶん読み返すだろう。そのときにはたぶん、またいまとは別の残酷さを味わうのだろう。貴重な作品のひとつとして掲げておく。

それにしても……買うべきなのかなあ、安部公房全集。「スプーンを曲げる少年」は気になってはいるのだが。





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