pen No.209「1冊まるごと、現代アート入門!」

art 】 2007 / 10 / 16
セブンイレブンで立ち読みしていたら、「pen」という雑誌で現代美術の特集を組んでいた。500円とお買い得。フルカラーで100ページ近くを割いており、戦後の抽象表現主義以降、現在にいたるまでの歴史を10の視点と年表で素描、同時代の作家、重要な国内美術館・ギャラリーや大きなアートイベントなどを取り上げており比較的まとまっている。現代美術がわからない人にはとりあえず手にとってみてほしい1冊。だけど、月2回刊行だからそろそろコンビニから消えるかな。

個人的には、大きな影響を受けた60年代のミニマル〜コンセプチュアルアートへといたるdematerializationの流れと80年代の混沌がすぱっと切り落とされているのが涙目。ポップアート→(空白)→新表現主義、みたいな図式化で報われないことこの上ない。この辺、当事者のSさんなどはどのようにお考えになりますでしょうか。笑い。誰がまとめたんだと見てみれば新川貴詩か。じゃあ、しかたないか。それでも、バスキア最高! スーパーフラット一押し! みたいなまとめ方をしなかっただけでも極めて良心的な仕事といっていいと思う。特定の立場に与することなく、大きな枠組みの中でまとめあげ、主要な作家を最大限拾い上げている点を評価したい。特にここ10年の動きが全く見えてなかったので、「ああ、別に大したこともなかったのね」ということが確認できただけでもよしとしよう。苦笑。

まあ、それでもやはり、60年代のコンセプチュアルアートから80年代のインスタレーションへの流れを補助線として引かないと、一部の作家はまるで理解不能だろう。ランドアートで項目を立てるなら、コンセプチュアルアートかインスタレーションを入れるべきだろうし、実験工房&EATやハイレッドセンターで立てるならマルセル・デュシャンを入れるのが正しい気はする。とはいえ、紙幅は限られているわけで、各自興味に応じて遡行すべきなのだろうなあ。

あらためて振り返ると、80年代中ごろからの10年間というのは日本の現代美術においては完全な空白期になってしまっている。1991年からのバブル崩壊で、資金源を立たれ人々の視線が文化から経済に移る中でヒトもカネも失われ自壊した、と言い切ってしまっていいかもしれない。当事者にとってみれば、そんなことはない、でしょうけれども。苦笑。しかし、本当に記録すら残らないほど自壊したんじゃないかというのは、例えばp69〜p72の現代美術の流れを10年きざみで整理したまとめで、late 80'sとしてイリヤ・カバコフが採られていることに象徴的。80年代にカバコフについて語られた記憶がぼくにはまるでない。掲載された作品も1999年発表の「天使と出会う方法」だし。宮島達男をメディアアートの文脈に置くのも微妙に気持ち悪い。1950s、1960s、1970sが不満はあれどそれなりに納得のいく作家選択がなされているのに対して、80年代、90年代はもはや要約不能となり、2000年以降には金沢21世紀美術館が置かれるのみ。実に不毛である。笑い。

日比野克彦(そういえばベネツィアに出たんだよなあ)やジェニー・ホルツァー、クリスチャン・ボルタンスキーのような、それなりに大きな名前が見えないという点で、やはりまとめようがないというのが正直なところだろうけれども、個人的なつながりという部分を割り引いても、80年代、90年代において優れたインスタレーションが生み出されていたという確信はあるし、この年表に平川典俊、小杉美穂子+安藤泰彦、有地左右一+笹岡敬、といった名前がけっして載らないだろうことにぼくは小さくため息をつかざるを得ない。それはある意味、《敗戦》とでも名づけるべき事態で、いまや単なるマーケターの(それすらも怪しいが。笑い。)ぼくとしては少なからざる戦犯意識を感じないでもない。結果的に、そこではぼくもまた敗者の列に並び過去に押し流されていく群景の中の小さな一点として、2000年以降の象徴を金沢21世紀美術館のみに委ねざるを得ないような状況を甘受しなければならないのだから。

まあ、そんな年寄りじみた過去の繰り言は実際のところどうでもいい話で、真に優れた作品というのはいつ見ても若々しいわけですよ。1950sのフォンタナと吉原、みずみずしいじゃないですか。森美術館の六本木クロッシング2007なんて、出展作家の一人が四谷シモンですよ? 笑い。

これでもかとばかりに写真が掲載されているので、たぶん誰もがこの特集の中から気になる作家を見つけられると思います。紹介されている美術館・ギャラリーの直近のエキジビションもなかなか粒揃い。読んで、見に行って、読み返すと楽しさ倍増。これで500円は自分で書いていてほんとにお買い得な気がしてきた。いますぐコンビニへ走れ! 笑い。

タグ:art





Comment(6) | TrackBack(0) | art

この記事へのコメント
まあ、もともとあまりジャーナリスティックなところにいなかったもんで、そんなに気にしてはいませんが。w
ただHAMが近年、草間や具体の田中をシーンに再評価させたように、80年90年代をそれなりに総括するひとが現れても不思議ではないとは思います。
僕にしてもそろそろカウントダウンにはいってるので、あと20年で何ができるのか考え始めてはいますが。。
Posted by S at 2007年10月17日 17:51
Sさん:

どうも不義理をいたしております。苦笑。

草間弥生も田中敦子も、ある種の伝説を帯びながら国内外で認知を受けていた、というのが大きいのかもしれませんね。

そういう意味では80年代、90年代の総括はぼくはもう少し時間がかかるんじゃないかと考えています。

本来それを担うべき位置にいた椹木野衣が何か大きなものと引き換えに、「日本・現代・美術」1冊で呪をかけた気がしてなりません。あの抑圧的な薄暗い本を正史として持たざるを得なくなったせいで、伝説化することが極めて困難になったのではないかと。

もっとも、ことは椹木一人に責を負わせるといった話でもなくて、あの「作品」に抗する術を誰も持たなかったこと自体が一つの回答なのかもしれません。かといって、たにあらたの世代がとにかく弱すぎた、みたいな話にしてしまうのもそれはそれで寂しいわけで。

で、結局その出口がまさしく21世紀と心中する気まんまんな金沢21世紀美術館だとした「pen」の特集記事の能天気なしめくくりは『悪い場所』という呪を忘却しようとするある種のニヒリズムと見るべきか、生活の知恵と見るべきか。いずれにせよ、呪われた時代をまるごと切り離して、さあ、今日からなんとかルネッサンス、みたいなどっかの校長先生の訓示じみた安さは否めません。苦笑。
Posted by 衰弱堂 at 2007年10月17日 23:45
金沢21世紀美術館は金沢自体にアートシーンが無い状態で立ち上がったがゆえに21世紀と断言せざるを得なかったというか、アートをジャーナリスティックに紹介し見せ物化させる場としてのやる気まんまんゆえ、それほど期待してはいません。新館長はもっと金沢の現場とリンクさせることを考えてはいるようですが、どうなんでしょうね。

「日本・現代・美術」の呪いとはなかなか良いですね。その呪いを解く王子様、どこからか現れないなかぁ。。(マジ)
昨夜、元富山県立近代美術館のYさんと飲んでいて、富山近代美術館の話になったのですが、富山も金沢を横にらみして、20世紀から21世紀の美術というくくりでやるという方針になってきているようです。僕らの話としては、瀧口や東野のラインで停止している20世紀美術の穴をもう少し埋める作業をするべきではないかという話をしたんですが。
実際には富山近代が持っているリヒターはドクメンタの出品作品だったり、かなりレベルの高いコレクションがなされています。そういう点で集められたものが横のラインになっていない。富山の初期の国際展にはレベッカ・ホーンも招聘されていますし、(たぶん日本初)そういうあたりを外にアピールしていくのが下手というかなんというか。w

今晩のオープニング、館長つかまえてちょっと暴れてみようかな。。
Posted by S at 2007年10月19日 09:27
美術館に「21世紀」とかつけてしまうのは、例えば「19世紀」とつけてしまうよりは幅広い、といった感じでいずれにせよゴーイングコンサーンとは無縁の今がよければそれでいい的な愚鈍な発想な気はします。

ただこのあたり、蓑豊「超・美術館革命―金沢21世紀美術館の挑戦」(角川oneテーマ21)を読むと、彼がいじる前にすでに所与のものだった感もあり、誰の責任なのかはよくわかりませんが。

彼らのアプローチは特にエデュケーショナルな部分では評価すべきだと思うんですが、そういう点ではすぐに「業界」に返ってくる話でもなく、それ以外の面を見ても美術の現在を代表させるのはまあ行き過ぎですよね。学芸員が顕揚されるって、どれだけジャンルとしてやせ細ってるんだよという話で、作家なり作品なりをきちんと扱わずに次の世紀を迎えられるのか? と考えると、この美術館の命名は実に皮肉です。微笑。

>「日本・現代・美術」の呪いとはなかなか良いですね。その呪いを解く王子様、どこからか現れないなかぁ。。(マジ)

いやあ、あのいかにも悪人然とした村上隆でさえ、「芸術起業論」でかつての盟友たる椹木にひとことも触れてない(読み落としているかもしれませんが)ところを見ると相当根深いですよ、これ。苦笑。

外部から見ると「日本・現代・美術」はちょうど文学の世界での蓮実重彦の「小説から遠く離れて」と同じような場所に落とされているような気がするんですが、後者が高橋源一郎ひとりを生贄にしてジャンルの延命装置として機能したのに対して、前者は誰一つ殺さなかったけれどジャンルを瀕死に追い込んだ、という印象を受けます。

>瀧口や東野のラインで停止している20世紀美術の穴をもう少し埋める作業をするべきではないか

この穴は、経済的な部分で底が抜けてしまっているので、投げても投げても埋まらないんじゃないかという懸念はあります。苦笑。

こと国内に限っていえば蛇が自分のしっぽを食っているような縮小再生産がひたすら続いてきたわけで外部資金が滞留して還流する仕組みがいまつくられないと、ほんとに厳しい。文学にしろ音楽にしろ映画にしろ、複製芸術としてマネタイズする仕組みがあるからこそそれなりに継続してカネと人が入ってくるわけで、なぜ美術だけがそうならなかったかというのは「悪い場所」の一言では片付けられない大きな問題だろうと思います。誰かそこを菊地寛よろしく力技でなんとかしてくれないかなあ(マジ)

たまたま仕事がらみで「セブンシーズ」という高額所得者向けの雑誌が職場に届いていたのですが、特集が「現代アートは「見にいく」から「買いにいく」時代へ」でした。おいおい、誰が見にきてるって? と思わず突っ込まずにはいられないわけですが、それ以前にも書店の「お金儲けの本」コーナーで現代美術への投資がおいしい、みたいなことを書いている人もいて、どうやらまたカネの流れは来ているようですね。懐かしや、東高現代美術館。笑い。

ただ、このカネが、郵貯の資金を狙う外資みたいな陰謀論よろしく、ことごとく海外に流出していくといった構図も目に見えているわけで、ほんと救われないなあと寂しさを感じる昨今でございます。


Posted by 衰弱堂 at 2007年10月21日 01:02
批評などかなぐり捨てて「ありました美術史」を
やっとかないといけないのかと思ったりする今日、
この頃。
Posted by koshoan at 2010年12月29日 11:11
koshoanさん:

誰しも考えることは似てくるものなのか、つい最近になって山内崇嗣氏が個人的に美術史年表

http://jp.omolo.com/?p=678

をまとめられていたことを知りました。

元になったwikiサイトがもうないようで追記不可能なのですが、CC表示2.1のライセンスが付与されているので、関係者はこれを活かすべきなんじゃないかと。
Posted by 衰弱堂 at 2010年12月29日 15:44
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。