O先生のこと

essay 】 2007 / 08 / 19
昔、埴谷雄高はどこかで、先生と呼ばれることを峻拒していたと読んだ。私はあなたの先生ではありません、といった趣旨だったか。それを読んで、ぼくも安易に先生という言葉を使うことにためらいを感じるようになった。

そんなぼくが、いまでも先生だと心のどこかで感じているのが、高校時代通っていた英語の私塾のO先生。

銀弾丸氏が突然、「3年B組金八先生」で加藤と松浦が警察に無理やり拘引され、そのBGMに中島みゆきの「世情」が流れる日本ドラマ史上屈指の名シーンをメッセンジャーで送りつけてきて、それを肴にどうでもいい話をしているうちに、O先生のことを思い出した。高校卒業後一度も会っていない。もう今後も会うことはない。当時は若く見えたが、見た目よりもずっと年長だったはずだ。天然パーマなのか、くしゃくしゃのすこし長い髪型で、いつもジーンズ姿。子門真人と南こうせつを足して2で割ったような風貌、といえば想像がつくだろうか。もはや会うこともかなわないのかもしれない。

いまでこそ、気取ってニュースサイトのソースの英文読みにいったりというスタンドプレイをこなすぼくだが、高校時代、英語は得意ではなかった。級友が2人ほど、O先生がサッシ屋の2階の貸し教室で開いていた英語の私塾に通っていて、誘われたので通うようになったと記憶している。生徒は10人もいなかった。そのとき見せられた塾のチラシは黒一色の地味なもので、塾の名はギリシャ文字を使っていた。のちに、フラタニティを意識して命名したとO先生に聞いた記憶がある。その当時のぼくにはフラタニティがいかなるものかなんてよくわからなかったけれど。

授業のことはあまりよく覚えていない。少し長めの英文が掲載された問題集をひたすら読み、それを訳出する。原文に出る単語がどんなラテン語に由来するか、接頭辞はどんな意味を持っていて、派生語はどんなものがあるか、が特によく叩き込まれたと記憶している。時に原文の内容を巡って話はどんどん広がりつづけ、何の授業かよくわからなくなる。ぼくがはじめて出会った知識人は、O先生だった。

夏期講習(O先生1人の私塾だが、確かそんなものもあった)は時間が長く、途中でO先生はポケットマネーで生徒2人ほどにみんなの分の飲み物を買ってくるようにいい、皆でジュースを飲みながら、自分はビールだか缶チューハイだかを飲みながら、授業は続いた(いまでこそ、教室に飲み物を持ち込む風景はそれほど違和感はないのかもしれないが、当時にしてみればこれは実にフランクだった。それでも今なお教師が酒飲みながら授業をするほどフランクなところはなかろうが)。

もともとあまり好きではない英語の授業を受けているわけで、それでも苦痛だったのだろう。当時、やたらとO先生の塾が出てくる夢を見た。問題集の英文はさまざまなソースからの引用だったが、しばしば引かれるバートランド・ラッセルのテキストは特に難解で、「あーまたラッセルかよ」とささやかな悲嘆を味わったものだ。そのくせぼくは、哲学科志望で、実際に大学の哲学科に入学したのだが。笑い。

O先生は、本人の語るところによれば、ドロップアウトした知識人だった。東京外大を卒業後、東大に学士入学し大学院に進学、ルネサンスの研究で将来を嘱望される存在だった、という。「西の会田雄次(京都帝大)に対して東のぼく、だったんですよ」と平然と語っていた。そして、その将来を、O先生は選ばなかった。結婚して、子供ができたから、だといった。

O先生の親はそんなことを知らなかったらしい。いつも、「また与太話を語っている」、といった調子で取り合わなかったらしい。そんな親に、大学を離れて1年ほどすぎたある日に届いた、学問の世界に戻ってくるよう強く促す教授からの手紙を、家で酔っ払いながら見せたら、親の顔が真っ青になりましたよ、と少し悪意のこもった笑みを浮かべていた。

その話を聞いたときぼくは、人間のあまりにも不自由な、自由を、そこに感じた。それは後に読んだ藤原新也の「東京漂流」に出てくる「人間は犬に食われるほど自由だ」という言葉の自由よりも、ずっと苦しい自由に思えた。いまでも、アンドレ・ブルトンの「生きるのも、生きるのをやめることも、ともに想像のなかでだけの解決にすぎない。生活するとは、もっと別なところにあるのだ」という言葉を胸に刻んでいるのは、そんな自由があることを、そんな生活があることをすでに知らされていたからなのだろう。そして、ドストエフスキーの「悪霊」で、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーに出会ったときに、何か奇妙なリアリティを感じたのは、O先生と重ね合わせていたからかもしれない。

後にぼくが、不自由な自由を生きるようになったときに、時折、O先生のことを思い出した。O先生は、それゆえに、先生なのだろう。ぼくはO先生から英文を読み解くステップだけではなく、人生を読み解くステップの一端を、教わった。

それからのO先生がぼくの先生になるまで、どのように生きてきたのかをぼくは知らない。そして、ぼくが進学したあとのO先生のことも、ぼくは知らない。それでも、O先生はたぶんぼくのなかで、O先生のままだろう。


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この記事へのコメント
わたくしも、哲学科を志望していました。カウセラーになりたくて、心理哲学科を目指していました…(かなり弱い意志で)

実際は別の科に行きましたが、教養で哲学と教育哲学を取りました。深く学んではいないのですが、出席さえすれば良くらいはくださる教授の多い中、哲学の教授は成績重視でした。実際同じ受講の友人は不可をもらっていました…
その教育哲学で 優を頂けたのは 少し鼻が高かったです。

O先生の話からずれましたね
ちょっと自慢かも

Posted by anan at 2007年08月20日 02:16
デカルトだかをやっていたK教授は一度も授業に出なかったぼくのレポート1本で優をくれたのでとてもいい方だったと思います。笑い。

あと、卒論の副査として、何の関係もない現代美術作家に関する論文を、ひとつも指導することなく迎えた口頭試問で「思ったよりしっかりした論文がかけるのね」と強烈な印象批評をくださったギリシア哲学専攻のS教授も悪気はない方だと思います。笑い。
Posted by 衰弱堂 at 2007年08月21日 00:11
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