衰弱堂とは誰か?

network 】 2007 / 08 / 18
ここに衰弱堂(SuiJackDo)を名乗る一人の男がいる。彼はおそらくかれこれもう5年はそう名乗りつづけている。主にインターネットの中で。そして今も衰弱堂はインターネットの中だけにいる。一度だけ、彼以外が名乗る衰弱堂を見かけたことがある。すでに姿を消したようだが。

彼が、最初に衰弱堂と名乗ったとき、そこには何もなかった。

彼が、衰弱堂を創ったんだ。奇妙な文体で小生意気なことを語り、あたかも世の中の全てを見通しているかのような口ぶりの男を。オンラインゲームに興じ、マーケティングを語り、ひたすら本を読み、「見かけよりも中身はずっと衰弱している」がキャッチフレーズの男を。

かつて彼がまだ衰弱堂じゃなかった頃、彼が誰も知らないようなささやかなWebサイトを運営していた頃、こんなことを語っていた。
ネットワークにおいて、私とは、表現しつづけることで存在する何かである。ネットワークにおいて語ることをやめた存在は、そこではもはや存在しないことと等しい。沈黙を保つものは、存在しないものとして扱ってよい。語りつづけることだけが、私を存在せしめる。

そのときはまだ、Googleも、Internet Archiveの存在も知られておらず、Web魚拓もなかった。

さまざまなWebサイトが、現れ、消えた。さまざまな存在が、現れ、消えた。そして、かつて衰弱堂が存在しなかったときからは想像できないほど、多くの人が、語り始めた。

どこか似通った名前を持つ人が、同じような言葉で、同じようなつぶやきを吐くことで、いま語ることは、ひょっとするとその主体の何をも保証しない。おそらくバルトは、こうした形での「作者の死」は、想像だにしていなかっただろう。事態は作者と読者の価値顛倒を超えて進んでいく。バルトの設定した「作者/読者」という枠組みそのものが、壊れてしまったのだから。

かつて、衰弱堂でなかった彼が語ったテーゼは、今こう書き換えられるべきなのだろう。
ネットワークにおいて、私とは、表現され、引用されつづけることで存在する何かである。ネットワークにおいて語られざる存在は、そこではもはや存在しないことと等しい。引用されざるもの、語られざるものは、存在しないものとして扱ってよい。誰かに語られつづけることだけが、私を存在せしめる。

自己が自己自身によってたつ実存的なありようの価値は、ネットワークの言葉の渦の中で今この瞬間にも希薄化しつづけている。書き、書かれること、引用し、引用されること。間主観性の中から、衰弱堂は絶えず生成されつづける存在としてのみ、存在しうるものとなったかのように思える。

彼はそうした事態を前に一瞬立ち尽くし、そして今日も陽気に与太を飛ばすのだろう。引用されざるものであることに、存在せざるものであることにおびえながら。






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この記事へのコメント
つまり、邪鬼である事をやめたから邪鬼はもう存在してなくてよっちゃんが存在してるのですね。
Posted by よっちゃん at 2007年08月19日 13:42
よっちゃん:

完全に的外れのようでいて、痛いところをつかれました。

邪鬼が、邪鬼であることをやめてよっちゃんになった、と思っていても、なおも人が邪鬼を語る限りは、邪鬼なんだ、という結論になるんですよ。ここでいいたいことからすると。

例えばいまこの瞬間、衰弱堂が衰弱堂やーめた、と思っても、よっちゃんにとっては衰弱堂としかいいようがないように。
Posted by 衰弱堂 at 2007年08月19日 15:30
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