掌中の実

essay 】 2012 / 01 / 09

 新年早々気がついたのは、長らく使っていた茶碗が割れていたことだった。

 それは台所の洗い物を入れた食器受けの底で、きれいに、真っ二つに割れていた。おそらく洗った皿を茶碗の上に乱暴に置いたせいなのだろう。それにしても、きれいに割れたもので、茶碗ではなくなってしまった何かは、いかにも一対の道具のようにさえ映る。とはいえ、もはや飯を盛るための用は足さないだろう。2つに割れた茶碗を合わせて、とりあえず買い物袋を二重にして流しの下によけた。

 今の部屋に越したときに買い、使い続けた茶碗なのだけれど、特にこれといった思い入れはない。百円ショップか、スーパーで購ったものだったかと記憶している。ならばまた百円ショップで買えばよい。だが、正月ゆえ店は開いていない。まあ正月だ、雑煮を食えばよい。椀はあるのだ。切り餅を2つ、オーブンレンジで焼き、湯を沸かし、椀に永谷園のお茶漬け海苔を入れて湯に溶き餅を入れる。衰弱堂、渾身の一品である。もちろん、いかに手を抜くかというところだけに精魂が込められている。

 先のエントリで、「訳知り顔に骨董についてなどひとくさり」と書いてはみたものの、もちろんそうした趣味を持ち合わせることはなかった。茶碗の選び方など、てんでわからぬ。とりあえず、織部と鶴瓶の区別がつく程度にしかわからぬ。実に風情がない。風流を介さぬことこの上ない。一流の人物が一流のものを愛するのか、一流のものを愛するがゆえに彼は一流の人物なのか、どちらにせよ、ぼくは一流などというところからは遠いのだ。まずはアイスコーヒーを水で薄めるのをやめたまえ、衰弱堂君。

 それでも、よいものを知らぬというわけでもない。ずいぶんと長い時間が経ってしまったのだけれど、若い頃に、ぼくはそれを掌中におさめたことがある。

 あれは大学時代の5年目だったか、幾度か雑記に書いたように記憶しているが、ぼくは小さな美術出版社でアルバイトをしていたことがある。出版社の社長はカルロス・トシキに似た、笑顔が似合う人で、当時のぼくには年齢がわからなかった。出版社はやがて多額の負債を抱えたかで規模を大幅に縮小し、唯一の社員だった、以前は『みずゑ』の編集をしていたという物静かな女性と、ぼくを含め5人いたアルバイトはそこを去ることになった。

 今になって思うのだけれど、ぼくがアルバイトとして取次や直販の注文分の書籍を箱詰めしたり、出版目録のコピーを書かせてもらったりしていた時も、社長はきっと苦しい状況だったはずなのだけれど、彼はけして笑顔を絶やすことはなかった。笑門来福。東中野にあった、ガレージを掘り進めた半地下のような社屋を閉め、やがて噂を聞かなくなったその出版社は、その後鎌倉で再び新たな書籍を出している、と風聞で知った。ぼくが彼の立場だったとしたら、あの当時、あの笑顔ではいられなかったと思う。ああいう人を、ぼくは他に知らない。そういえば、ぼくと、ぼくに誘われた後輩と、もう一人フリーターで絵を書いていた同年代の青年がいたが、彼はまだ若かったぼくらを子供扱いすることがなかった。年の離れた優しい兄のような佇まいが印象深い。

 ある日いつものようにアルバイトに行くと、半地下のガレージの入口に近い明るいスペースで、何やら陶器の写真を撮っているところに出くわした。新しい本を作っているのかと思いきや、社長の実兄が陶芸家で、デパートで催される展示会のカタログのための写真撮影だという。ぼくはカメラマンの即席助手として、撮影する陶器を台に置いては入れ替える役。無事に撮影を終え、テーブルに並べられた作品を眺めているうちに、その中の一つが不意に気になった。確か鶯色の茶道の茶碗のようなものだった。

 おそるおそる、両掌で持った。しっかりとした重さを持ち、しっとりとした表面の手触りが伝わってくる。ああ、これはよいものなんだな、と素朴に感じる。その陶芸家が当時どのような評価を受けていたのかをぼくは知らない。ただ、あの茶碗はよかった。実際に使ってみたい、と思わせる何かを持ち、一流たりえないぼくをどこかに誘おうとした、あの茶碗。それこそ冗談半分で、これだけいっぱい作品があるのだから1個くらい持って帰ってもわからないだろうなどと不埒なことを考えたほどだ。

 あれは、実(じつ)だ。誰がどういおうと、あの時の掌中の実は消し去ることができない確かさでそこにあった。その後、そうした実を手にすることなく、時は過ぎた。ぼくは先日、百円ショップに行き、茶碗を買った。黒か、濃紺の、無地の茶碗がいい、と思って出かけてみたがそんなものはなく、何やら桜の模様が入った蒼い茶碗を買った。帰ってきてよく見ると、桜の花びらと、紅葉が描かれていた。桜と紅葉、季節が合わない。いったいこのとりとめのなさはどうだ。一流ではない人物は、一流ではない茶碗に、まだ飯を盛っていない。

 






Comment(0) | TrackBack(0) | essay

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。