同期と非同期

essay 】 2012 / 01 / 07

 新年である。圧倒的に新年である。これほどまでに新年だったことは1年ほど記憶にない。それもそうだ。例によって何のプランもなく書き始めているのでこんなことをのたまう。新年の抱負はない。新年だが信念はない。流されるままである。私は 愛のない難破船。書いているうちに自分でも、「ふざけるな」と言いたくなってくるのが不思議である。このばかばかしい文体、いい加減どうにかならないものなのか。これでも、大人などというものになれば、訳知り顔に骨董についてなどひとくさりして、分別くさいことを書けるようになるのではないかと、ぼんやりと期待してはいたのだ。大雅の絵を一幅買い求めたいがなかなかね、みたいな、それこそ澄江堂雑記みたいな感じで。ちがう。まるでちがう。澄江堂と衰弱堂くらいちがう。実に正確な比較である。

 まあ、とりあえず関係各方面からは何の苦情も寄せられていないので、こんな書き方をしていても、何の問題もあるまい。確かに苦情は寄せられていないのだけれども、好評だという話も寡聞にして知らない。黙殺されているだけではないか。嗚呼。とりあえず苦情その他はFacebookページまで寄せられたい。前向きに善処します。

 それにしても、しばらく時間を置いて雑記を書くたびに、やれ文体がどうだという枕が必ず入るというのもどうしたものか。さっさと本題に入るがいいさ。しかし問題は、だ。特に本題がないということにあるわけだ。まあ、「同期と非同期」などともっともらしい題目を掲げているからには、何がしか本題はあるにちがいない。が、それだけを書いてしまうと2行くらいで終わってしまうのでこうして引き伸ばしに引き伸ばしているわけである。アイスコーヒーをたくさん飲みたくて、100円ショップで買った紙パック入りのアイスコーヒーを水で割ったら、つい水を足しすぎてなんだか泥水みたいなものができあがる、そうした経験は誰にでもあることだろう。え? そんな経験をしているのはぼくだけなの? 貧乏はいやだね、どうにも。インスタントコーヒーを足して色をつけるといいですよ。そんな知識いらないよ。

 こんなことを書きながらも、ぼくの中ではテーマの周縁をぐるりと回りながら、近づき、また遠ざかっている感覚は、実はある。書き始める前より遠ざかってるんじゃないか、という懸念もなくはない。笑い。新年初笑い。このあたりであっさりステップインしてテイクダウンを取らせてもらうなら、去年のぼくの中では『倫理』という言葉が一つのキーワードだった。それはだいたい一昨年の冬あたりから考え続けていることで、例えば衰弱堂覚書「命を問われない『こと』での倫理」というポストがささやかな表明でもあったわけだ。

 その後、ぼくらはおもいがけないスケールでまさに倫理を問われ続けているわけだけれど詳細についてはあえて語るつもりはない。この先もさらにぼく自身が『倫理』について問い続けていかなければならないこともたぶんかわらない。その上でぼくは、『同期と非同期』が今年のキーワードになると感じている。

 感じているのだけれど、このことについて説明するのはひどく難しい。雑記でも一度、5年ほど前に「ネットゲーム2.0を考える (2)非同期型から同期型へ〜日本のネットゲームの潮流〜」というエントリで少し触れたことがあるが、ここで語られている射程ともまた異なる。

 新年を迎えた午前0時ころ、ぼくはちょうどFacebookを使っていたのだけれど、あのとき同じ体験を共有した人は同様の驚きを感じたと思う。Notificationがものすごい勢いで更新され、ソーシャルグラフがLikeを送出する巨大な機械のように働き続けるさまを目の当たりにすることになったからだ。Twitterと、Facebookを使い続ける中で、ぼくはようやくベルナール・スティグレールのいうシンクロニゼーションとディアクロニゼーションというターム(これは例えば 「愛するということ―『自分』を、そして『われわれ』を」 やその直後に書かれた 「象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代」あたりで用いられている)を感じ取れるようになった気がしている。

 スティグレールは暦と地図の運用のもとにかたちづくられる「われわれ」を指示した上で、暦をコントロールする力を文化産業の支配の源泉として想定しているのだけれど、これは例えばワールドカップのようなイベントが今日では、「われわれ」が同じ時間に同じ<窓>に視線を差し向けさせる力を有しているという意味で、グローバルに共有される祝日、ひとつの暦になっていることをいわんとしている。スティグレールはもっぱら、テレビを中心とした文化産業の分析を行い続けているけれど、彼が踏み込まないネットの世界でも、繰り返し過度なシンクロニゼーションが起きていることを、ぼくたちは知っている。例えば、Twitterの「バルス」。日本のケータイメールの新年の輻輳はいったいいつごろからだったか。一定の暦にシンクロするなかで「われわれ」は立ち現れてくる。けれど、そこで共有されるものを見出そうとしても空虚だ。われわれはシンクロニーしながら、個々人がディアクロニーな存在として、異なる時間を生きている。 本来異なる時間を生きる存在がシンクロナイズする可能性において、はじめて「われわれ」の可能性が開かれる。スティグレールの問題圏の一部を簒奪すると、まあそういったことだ。

 非同期な存在が、同期することでそこに何かが生まれている。ソーシャルメディアのもたらす未来を語る人はおおむねそうした文脈でもっともらしいことをいう。けれど、そのシンクロニゼーションは、必ずしも手放しで礼賛されるようなものではないはずだと、いまぼくは考え始めている。 非同期であることは、本来的で当たり前のことなのだ。過剰に同期することで、ぼくらはぼくらの中の何かを、殺す。それを殺していいのかを問わずに、ソーシャルメディアに頭から飛び込めというのは、ある種の信仰というほかない。

 Twitterで、Facebookで、ぼくはときおり奇妙な共犯関係を感じつつも、より深い孤独を感じることがある。それはそれでいい。似たような接合部だと思っていたものの細部を見ると奇妙にかみ合わない。だからこそ、ぼくはぼくたりうる。それもまた、ぼくが勝手にスティグレールから引き出したことだ。

 そして環を繋げてみよう。ぼくが常に一読してどうでもよいことから書き始めるのは、書いているぼくと同期しようとしているのだ。シュルレアリストの末裔としてのぼくは、オートマティスムによってどこかにたどり着く可能性をある程度信頼している。それによってもたらされる読み手の非同期感が、特定のリズムの中で同期し、そこにぼくが見出したものとはべつの何かを見つけ出し持ち帰ってくれる可能性をも信じている。やはり、当たり前のことを当たり前には書けないようだ。そんなものは誰か別の人が、もっとうまいやり方でやってくれるにちがいない。もっと、圧倒的にディアクロニーな書き方をしたいものだ。自分が日本語を読んでいることすらおぼつかなくなるようなやり方で。

 バルスなんて、ぼくの知ったことじゃない。ミシンと蝙蝠傘が、解剖台の上で出会うからこそ、美しい。それよりも、ミシン以外の何かが、蝙蝠傘以外の何かと、解剖台以外の何かの上で出会う瞬間を夢見るようにして、たぶん今年も衰弱堂雑記は細々と書き継がれる予定です。引き続き気長にお付き合いください。






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