藤本隆志「ウィトゲンシュタイン」(講談社学術文庫)

books 】 2009 / 05 / 19
 1989年。ハイデガー、ヒトラーらと同じ年にウィーンの裕福な家庭の末子として生まれた男。3人の兄は自殺した。実験のため凧をあげ、第一次大戦では志願兵として戦功を上げ、トルストイを読み、イタリアの捕虜になった。親の財産には目もくれず、1冊の本を書き上げることでその道に自ら終止符を打ったと確信し、小学校教諭として働きながら生徒のための語彙集を編んだ。父兄と衝突して職を辞した後は、庭師になり、建築家として姉の家を建てた。やがて終止符を打ったはずの世界に舞い戻り、ケンブリッジ大学教授となった彼。ネクタイもしめず、フランネルのズボンとシャツ、ジャンバーを着た、奇矯で、情熱的で、生徒たちに強い印象を与えた彼は、自らその座を捨てた。ロシアに憧れ、新大陸で死にたくないと漏らし、そして、死ぬまで考えることを捨てなかった男。

 彼、ウィトゲンシュタイン。

 二十世紀を代表する思想家の一人、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの生涯と思想を、大修館書店から刊行された全集の主要著作の翻訳でも知られる藤本隆志氏がまとめた一冊、「ウィトゲンシュタイン」(講談社学術文庫)を読了。1981年に講談社の「人類の知的遺産」シリーズの1冊として刊行されたものを加筆・訂正して1998年に文庫化されている。



 本書は

 T ウィトゲンシュタインの生涯
 U ウィトゲンシュタインの思想
 V ウィトゲンシュタインの著作
 W ウィトゲンシュタインの波紋

という、割とオーソドックスな4部構成からなっている。しかし、冒頭にも書いたように、ともかく波乱に満ちた生涯を送った哲学者だけに、これはもうどうあっても面白くなってしまうわけである。

 第T部では彼の62年間の生涯をたどりながら印象的なエピソードを書簡や第三者の発言から拾い上げ、写真資料も交えて披瀝している。芸術的な空気に満ちた家族、相次いで自殺する兄たち、第一次大戦との関わりと「論理哲学論考」出版までの経緯、小学校教師時代、ケンブリッジ大学への復帰と辞職後の放浪、ガンによる死と向き合った晩年までが丹念に描かれていて興味をそそる。同性愛者説の検証なんていうことまでまじめにやっているのがなんだかほほえましい。笑い。

 第U部ではウィトゲンシュタインの思想を概観しつつ3つの観点からその位置づけを探る試みがなされている。まえがきに著者自身が記しているようにあらかじめ第V部を参照した上で参照した方がわかりやすいかもしれない。ぼくは頭から通読したためここはあまり印象に残らなかった。

 第V部はウィトゲンシュタインの著作群から中心的な諸問題を取り扱う部分を抜粋して構成している。一般的にウィトゲンシュタインの思想は前期(主著「論理哲学論考」によりウィーン学団に受容され、ナチス台頭後アメリカにわたったカルナップからクワインへの流れをつくる)と後期(生前未刊行の「哲学探究」に代表され、「言語ゲーム」という概念がオースティンやサールの日常言語学派と通底する)に分けられるが、藤本は「論理哲学論考」と「哲学探究」の2冊を主著として紙幅を割く方針を立てている。ウィトゲンシュタインの著作は断章形式のものが多いこともあり、それを思想のアウトラインが見えるようにうまく切り出している。また、これ以外の著作からも重要な部分を収録すると同時にに内容的に重複の多いもの(「茶色本」など)は割愛している。
 ここが実に違和感のないまとめになっていて、時間のない人は第V部だけをとりあえず読むことでも十分に味わいうるものになっている。

 第W部はここまでを振り返って洩れ落ちているエピソードや関わりあう問題群などを著者の興味の赴くところについてまとめた格好になっている。教授としてのウィトゲンシュタインの奇矯ぶりとその弟子が語るエピソード、「もの」と「こと」をめぐる問題、ウィトゲンシュタインと禅の関係、そして哲学することについて触れており、まとまりを欠くが深みをつけるのに一役買っている。惜しむらくはその思想の受容についての見通しが不十分なところで、このあたりはいま少しずつ読みすすめている冨田恭彦「アメリカ言語哲学入門」(ちくま学芸文庫)をざっと眺めただけでも、クワインとサールのような異なる立場に立つ者たちに与えた影響の大きさは想像するに難くない。

 巻末の年表で第T部の内容を思い起こし、主要著作の紹介に目を通して、改めて表紙に採られたセピア色のポートレートに目を落とすと、この1冊を読む前よりも多くのことを感じさせられた。よい一冊だった。


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