デビッド=フォスター・ウォレス「ヴィトゲンシュタインの箒」(講談社)

books 】 2004 / 04 / 11
デビッド=フォスター・ウォレス「ヴィトゲンシュタインの箒」(講談社)を読み終える。

読後感は単に作品自体の持つ力よりもむしろ、この作品をめぐる個人的な年代記に否応なくむかってしまうわけで、少しそのあたりも書きとめておくことにする。

奥付を見ると初版が1999年6月。確か出て2ヶ月ほどで買い求めているはずで、その間ずっと書棚に眠っていたのだが。

そもそもウォレスの名は1991年6月に出て1号きりで消えた雑誌なのかムックなのかよくわからない『positive01 ポストモダン小説、ピンチョン以降の作家たち』(書肆風の薔薇)の風間賢二「ポストモダン作家ベスト60」で見たのが最初で、風間は処女作The Bloom of the System(1987)について、「『競売ナンバー49の叫び』を想起させるといってよい」と記している。当時のぼくとしたら、これはもう最上級の誉め言葉といっていい。

それから8年、メタフィクションから遠く離れたぼくには、ようやく翻訳されたこの本をとりあえず買うのがせいいっぱいで、幼いレノア・ビーズマンの挿話から始まる小説と寄り添うだけの何かは確実に失われ、書棚にそっと置いたままさらに4年ほど過ぎ去ったというわけだ。

今さらになって、この小説を読まねばならない意味があるとはとうてい思えないし、正直にいえば読む意味がある1冊とも思えない。ここに描かれているのはある種の袋小路であると同時に小説の袋小路なんじゃないだろうか。

ヴィトゲンシュタインに学んだ老婆と同じ名前をもつレノア・ビーズマン、老人ホームから脱走した老レノア・ビーズマンたち、混線する代表電話を受けるレノア・ビーズマン、寝物語にレノアに投稿小説や自作の小説のあらすじをかたる愛人リック・ヴィゴラス、言語能力の発達を促進させる物質を抽出しベビーフードに添加しようとするストーンサイファー・ビーズマン、突然やかましくしゃべりはじめるオカメインコ、世界を自らで満たそうと旺盛に食いつづけるボンバーディニ、その他その他。ひとくせもふたくせもあるプロットは浮かび上がっては消え、レノアとヴィゴラスの会話は次第に接点を失い、メタフィクショナルな力に導かれてさまようレノアの姿を追ううちに、小説はなんだか小説によく似た何か、それゆえに小説としか名づけようのない何かとしての姿を次第に現し、消える。この先には、たぶん何もないのだ。

小説を読むことがひとつのコミュニケーションだとすれば、執拗にディスコミュニケーションをめぐり続ける《作品》を読むことは、コミュニケーションなのか、ディスコミュニケーションなのか。400ページを超えて繰り広げられた『できごと』は、ぼくに何かを伝えたのか、伝えないのか。

「ヴィトゲンシュタインの箒」は『小説』ではないし、まして『文学』と呼ばれるような筋合いのものでもないと思う。帯に記されている『小説はここまで面白くなった。』というコピーは、個人的には不当表示だなと思わずにはいられない。

それでもなおこの1冊を手にとり、最後の2章あたりまでたどりついた人は、残された紙幅のあまりの薄さにその結末をうっすらと思い浮かべるだろうと思う。ほぼそのとおりの結末だ。読み終え、本を閉じ、これしかないなと思いながら何か物足りなくて、それでいて満たされている。「ヴィトゲンシュタインの箒」と同じような体験を与えてくれるものは、きっと他にはない。そのことによって、この1冊が特権化されることはけしてないのだけれど。こんな体験は、別に必要じゃないんだ。

読後、人に伝えたくなる本とそうでない本は明らかに存在する。たとえばぼくは、何度でも、「黒い時計の旅」について語るだろう。時がたち、細部が失われてもなお、エリクソンの衝撃について語るだろう。しかし、「ヴィトゲンシュタインの箒」については、語りようがない。

いまここで語られていることのすべてはおそらく、十余年を経てようやくたどり終えたある個人的な旅路についての話なのだと思う。それは計画から時を経て次第に忘れられていたにもかかわらず、いきなり列車に飛び乗ってしまって、もはや目的地も定かでなく、動機も、楽しみも語られようのない旅路だ。

そして旅を終えたぼくは、心の中で小さく、悪くはなかったな、とつぶやいている。そのつぶやきはたぶん、きみとは共有できそうにない。

(初出:2004/03/23 Doblogエントリーを再掲)




Comment(2) | TrackBack(0) | books

この記事へのコメント
私はこれも好きですよ。「競売〜」より読みやすかったな。
Posted by マル季 at 2008年03月23日 16:10
マル季さん:

はじめまして。
ぼくは「競売ナンバー49の叫び」はまた読もうかと思うことがあるのですが、この本は正直再読する気になれません。かなりきつかった印象が残っています。苦笑。
Posted by 衰弱堂 at 2008年03月26日 02:14
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